「さざなみ 」鹿又英一

  主宰作品

季刊俳句誌「蛮」に連載のコラム「さざなみ」より転載します。(令和元年10月「蛮」51号~)
(蛮61号からは巻頭の主宰作品10句を併せて掲載)

「さざなみ」(令和六年七月「蛮」70号) 鹿又英一
 

 小説においては、「書く者」と「読む者」は大方別人である。特に、読むことの専門家である「批評家」なるものが十九世紀くらいに出現し、「作家」と「批評家」が、互いに支え合って、小説を価値あるものにしているのである。 

 ところが、俳句においては、「書く者」=「読む者」である。これは、座の文芸である俳句特有のものである。だから、俳句は、どの文芸ジャンルにも増して作ることと読むことが深くつながっている。詠む=読むである。 

 句会において、点が入った、入らなかったことのみに拘泥する人が多いが、そういう態度では、「詠み」も「読み」も向上しない。自分の作品や作句態度なりを他者の作品、作句態度とじっくり比較検討することによって、自分の作品の長所・短所が分るのである。特に、立派な作品(高点句とは限らない)に接し、俳句としてどこが良いのかをしっかり分析することにより自身の作句力が高められるのである。 

 いつも思うことだが、自分自身の選句基準があるかないか、ということが句会でよくわかるのである。やはり、常に勉強を重ねて、「俳句とはなんぞや」ということと、それに付随する、もろもろの決まり事、いわゆる「基本」に弱い人は選句においても弱いのである。 

作句は創造である。だから選句においても「創造力」は非常に重要なのである。 

 
≪主宰作品≫
バッテラ  

グーグルをいぢつてばかり雛の客 

春闘や組合室の茶碗酒 

帰る鴨後ろの鴨を振りむかず 

春宵のシャルウイダンス共白髪 

バッテラに散りし一片花筵 

旭日旗に敬礼黄砂降りやまず 

客船のユニオンジャック花は葉に 

囀や切株に地図広げたる 

春の闇ところどころに酔つ払ひ 

長生きがお尻ふりふり春日傘 

「さざなみ」(令和六年四月「蛮」69号) 鹿又英一

 今に繋がる流れを作った江戸の三俳人《芭蕉・蕪村・一茶》。芭蕉は一六四四年に生まれ、一六九四年に亡くなり、蕪村は一七一六年に生まれ、一七八三年に亡くなり、一茶は一七六三年に生まれ、一八二七年に亡くなった。

 蕪村が俳句を始めた時芭蕉が、一茶が俳句を始めた時蕪村は既に死んでいた。正岡子規は、俳諧美のうち、芭蕉を「消極的美」、蕪村を「積極的美」という領域だと捉えた。では一茶はどうか。加藤楸邨は、芭蕉を「浸透型」、蕪村を「構成型」、一茶を「反射型」と分類した。『一茶の発想は浸透型にも、構成型にも該当しない。一茶本来の発想は、軽快な口拍子に乗せての反射的なものだ。一つの句を徹底的に追いつめてゆく芭蕉の推敲とは本質的にちがったものである。一茶の改案過程は、ある究極の何かに向けてのそれではない。その時その場で、完了してしまうものなのである。ほとんどが利用翻案、便宜的なものだったと考えられるのだ。(芭蕉の)明日の世界への現実での感合浸透や、(蕪村の)現実からの脱出による美の世界の構成などを持てなかった一茶には、一事一物を反射的に受容し、そこに自己を封じこめるほかはなかったのである』と楸邨はいう。反射的なペーソス、自嘲という一茶自身の声が、不思議に読者の内面に染み透ってくる。これが一茶の魅力である。

(裏店に住居して)涼風の曲りくねつて来たりけり 一茶

≪主宰作品≫
看板娘 

一湾にひかりの溢れ大旦

海光に紛るるかもめ初景色

濁り湯の隠す胸もと雪明り

いきいきと回る水車や深雪晴

還暦の看板娘寒参り

太陽の零れてをりぬ枯木山

どの絵馬も合格祈願日脚伸ぶ

つんのめつて土の匂ひの春めけり

打ち合へる艀と艀春一番

芽起しの雨に華やぐ三渓園

「さざなみ」 (令和六年一月「蛮」68号) 鹿又英一
 

「初詣」という季語。なぜ「初参拝」ではなく「初詣」なのだろうか。これには日本人の考え方はもとより、我が国の国体にも関わる深い理由がある。まず、「詣」の字の旁(つくり)の「旨(し)」は、匙で食べ物を掬う姿の象形文字からきていて、「旨い物」を指す。例えば「鮨(すし)」。ゆえに、豊かな作物、美味しい物を食べさせていただけたことへの感謝の気持ちを込めて年の初めに神様にお参りするから「初詣」なのである。初詣にはさらにもう一つの感謝も込められている。 

それは「四方拝」に対する感謝の気持ちである。元日の払暁、天皇陛下がだれよりも早く起きて、天地四方、並びに山稜を遥拝され、「ありとあらゆる災厄、万病が取り除かれ、民が癒されるよう、災厄はすべて我が身にのみ降りかかれ」とお祈りされる皇室における最重要の儀式である。 

元日の朝は、天皇陛下がすべての災厄をお引き受けくださった後だから国民一同、安んじて神社に感謝を捧げに行くのである。「四方拝」は第五十九代宇多天皇の寛平二年(八九〇年)に始まったのが起源だとされている。「大御心(おおみごころ)」をこれほど解りやすい形で、年の初めに陛下がお示しくださるのである。なんともありがたい国である。そして「四方拝」も新年の季語である。このことから、俳句という文芸が日本の根幹に深く根ざしたものであることがよくわかるのである。 


 ≪主宰作品≫
馬の耳
鉄塔の影伸びてゐる豊の秋
一匹は戸袋にをりちちろ虫
新そばとなりし蕎麦屋の藍暖簾
秋風やぴくりと動く馬の耳
岩風呂の岩なめらかや鰯雲
もやひ綱巻く腕太し秋入日
海峡に消えゆくフェリー草紅葉
コスモスの雨の迷路となりにけり
赤ん坊の一役もらふ里神楽
検尿のコップの並ぶ小六月

「さざなみ」 (令和五年十月「蛮」67号) 鹿又英一

 見たものをなぜ全て言おうとするのか。たった十七音の中に材料を盛り込めば盛り込むほど景はぼやけるのである。 

 秋元不死男の書いた『俳句への招き』という書物の「俳句を学ぶ人に」という章に次のような挿話がある。 

 ある俳人が先輩のところに行って「こういう俳句ができたが見てもらいたい」と言ってつぎの俳句を見せた。 

板の間に下女とり落す海鼠かな 

 先輩はこれを見て「材料が多すぎる。単純化しなさい」といった。そこで作者は考えた末に「下女」を削った。 

板の間にとり落したる海鼠かな 

 再び先輩に見せると「前よりはよくなったが、まだ材料が多い。もっと単純化しなさい」と。しかし作者は「これ以上削ることはできない。どうすればいいのか」と問うた。 

 すると先輩は「私なら〈板の間〉もうるさいから削ってしまう」と言った。 

とり落しとり落したる海鼠かな 

 この例句が良いかどうかは別として、事細かに報告した第一句が、次第に不要部分が削られて、二句目、三句目とますます海鼠とそれに関わる人物の実体に集中してゆく。そしてリアル化し臨場感が加えられてゆく過程が誰の目にも明らかになるのである。この挿話の教えは、《一点集中単純化》の重要性とその技術的な例示である。 


 ≪主宰作品≫
肥後守
 

借景の三重塔蓮ひらく 

古井戸を囲む竹垣蟬時雨 

やはらかく開く皺の手白日傘 

仲見世の驟雨に走る下駄の音 

警備員真夜のプールを照らしけり 

肥後守を隠してをりぬ半ズボン 

貨車繋ぐ音谺する青山河 

高原の風従へて赤とんぼ 

唐黍の実のみつしりと道の駅 

ひと駅を歩いてをりぬ月の客 

「さざなみ」 (令和五年七月「蛮」66号) 鹿又英一

 推敲の重要性ということが芭蕉の超有名句からわかる。

①山寺や石にしみつく蟬の声 (曾良書留) 

②淋しさの岩にしみ込せみの声 

③さびしさや岩にしみ込蟬のこゑ 

④閑さや岩にしみ入蝉の声 (おくのほそ道) 

 ①は「立石寺」という前書があり、「曾良書留」にのっている。曾良書留は、芭蕉の「おくのほそ道」とは違って、情緒的表現は一切なく、地名、時刻、区間距離、推敲の過程などの事実を正確に書き留めているから、初案で間違いないであろう。そして、初案は、いかにも旅の途中のメモのようで、ただの報告説明である。 

 芭蕉は、旅の折々にこの句を推敲し、改良を重ねた。②は、上五を「淋しさの」とし、中七を「岩にしみ込」とした。立石寺の周囲の雰囲気と蟬の声の浸透感がこの句の主題だと掴んだのである。さらに③では「さびしさや」と、しっかり切れ字「や」で作者の感動点を明示した。 

だが、これでも芭蕉は満足しない。考えてみても、「淋しい」と言ってしまっては答えがでてしまう。そして④で、上五を「閑さや」とし、中七で「岩にしみ入」として完成させる。「おくのほそ道」本文にある《佳景寂寞として心すみゆくのみおぼゆ》と重なるのである。 

 

 ≪主宰作品≫
 渡し船 

春寒し機影の渡る東京湾 

ものの芽に触れて小川の光りけり 

出航の春あかつきの巡視船 

三月の坂道上る箪笥かな 

囀やみんなが覗く乳母車 

花八分大井競馬のファンファーレ 

皺の手の豆腐を掬ふ春夕焼 

燗酒に焼鳥五本花いかだ 

鶯に迎られたる渡し船 

一対のトーテムポール緑さす 

「さざなみ」 (令和五年四月「蛮」65号) 鹿又英一
 

 いつも句会等で言っていることであるが、俳句は「平明」「単純化」「省略」が重要である。 

特に大事なのが「平明」で、その逆が「難解」である。俳句の難解には二種類ある。一つが、「表現形式の難解」である。俳句はごく短い詩形であるから、「切れ」とか、「取り合わせ」等の表現形式に関わる難かしさのこと。二つ目が、観念的な言葉や意味を追う主観的な熟語等の使用による「表現内容の難解」である。前者に関する俳句のルールや約束事は説明すれば理解できるからさほど問題ではない。問題は、後者の「難解」である。 

俳句は、昔から「庶民のもの」である。にもかかわらず、小難しい観念的な言葉、辞書や漢和事典を引かなければわからない重い言葉、意味を追う既成の熟語等を使った俳句を高尚な作品であるがごとくもてはやす一部俳人がいる。一般の人が普通に俳句を詠んで何を詠んでいるかわからない、記号のように言葉を並べて、それがあたかも新鮮であるかのように言い、押し付けられるのは許容できない。 

 はっきり言えば、やたらに難しいことを言いたがる俳人は、詠いたい内容がないから言葉で飾ろうとするのである。俳句は「難しいことをやさしく、やさしいことを深く、深いことを楽しく」書くものである。そしてその中に何らかの俳趣を湛える、それが平明ということである。 


 ≪主宰作品≫
小網代の森
 

江ノ島のマスト林立小春凪

道しるべの海指してゐる枯岬

小網代の森をちこちに笹子鳴く

街に立つ女に聖夜来りけり

レスラーのうしろに並ぶ初詣

恵方とは孫が来る方帰る方

沈黙のハンマーヘッド寒波来

牛丼も港の雪も久しぶり

梅二月谷戸の竹橋暮れにけり

アドリブが春風になる駅ピアノ

「さざなみ」 (令和五年一月「蛮」64号) 鹿又英一
 

石田波郷は「切れ字」に触れて、「短歌と俳句の違い」をこう言っている。『俳句は五七五、十七音であるが、短歌の上の句も五七五の十七音である。短歌の上の句に季語を含んだものもしばしばある。短歌の上の句と俳句の決定的な違いは、短歌の上の句はつねに下に連なる七七を意識して流動しようとしている。俳句にはそれがない。十七音で完結しようとする。切れようとする。切れ字はその働きをはっきり示すものである』と。《下に連なる七七を意識する》

これがまさしく短歌の特性である、流動性、時間性、連続性、軟質性のことなのである。これに対し、俳句は、流動性に対して凝集性、時間性に対して空間性、連続性に対して切断性、軟質性に対して硬質性である。短歌と俳句とはまったく正反対の文芸であることを波郷は「切れ」ということを言いながら示したのである。波郷はさらに、こういう。『〈肌さむし竹切山のうす紅葉 野沢凡兆〉この句、「し」を「き」にして中七に繋げてみたら、切れない句と切れる句の表現の深さがどれだけ違ってくるか容易に頷くことができる。現代の俳句が、内容過多のために十七音に盛り切れないで窮屈に押し込んで、切れ字も順当の用語も乱される傾向がある。良い句は、それを意識しないでもちゃんと切れている。《心して用いれば切れ字ならざるはなし》というのはこのことにほかならない』と。


 ≪主宰作品≫
面影橋

秋空に整ふ富士を拝しけり
カウベルの聞こえてをりぬ草の花
朽ち舟の舳先を齧る赤とんぼ
雪隠の汲み取り口のちちろかな
軽トラに投げ込まれたる捨案山子
夕暮の淡き海光草ひばり
ゴンドラの影すれ違ふ紅葉山
ベランダに栗鼠の来てゐる柿日和
散紅葉面影橋を振り返へる
猪鍋やまづ野天湯に入りたる

「さざなみ」 (令和四年十月「蛮」63号) 鹿又英一
 

秋元不死男は切字についてこういった。《切字は切字精神あっての切字である。精神が曖昧なら切字を用いても切れない。十七音という限られた世界に感動を納めるためには、云い切ることなのである。云い切るということは、説明ではなく断定することであり、つきつけることである》と。 

 ようするに俳句とは「断定の文芸」なのである。一点集中、単純化、省略、平明、饒舌と多言の排除、言葉を惜しむ、というような俳句の根幹は、技術的なことはもちろんだが、「心の決断」なのである。 

日常生活で、季節、自然と触れ合うときに、この決断の精神が欠如していては、良い句は決して生まれないだろう。そこをしっかり再確認すべきである。 

 さて、芭蕉に《六月や嶺に雲置く嵐山》という句がある。この句、もし上五を「六月の」としたらどうであろうか。流れは穏やかな句調になる反面、平板な六月の嵐山の散文的説明になってしまう。芭蕉が詠みたかったのは、「嶺に雲の在る嵐山」ではなく、陰暦六月の実感である。 

それがどうしてわかるかと言えば、当然六月にかかる「や」という切字の存在である。これが、「決断の精神」である。言い換えれば、「自分の思いの高揚点」の明示である。読者にそれが伝わるように表現しなければ単に述べただけの散文の切れ端に堕するのである。 


 ≪主宰作品≫
宵闇

夏富士へ飛行機雲の一直線
山羊髭のホームレスをり街薄暑
ポケットの小銭数ふる宵祭
梅雨闇のビルの谷間の占ひ師
猿山の喧嘩眺むる溽暑かな
夕立に叩かれてゐる油槽貨車
ライダーの突つ込んでくる炎天
古稀過ぎて遊び盛りや夾竹桃
万引の少年走る大西日
かはほりや珈琲匂ふ商店街

「さざなみ」 (令和四年七月「蛮」62号) 鹿又英一

 俳句は、季節の移り変わりの中における、自分の日常生活と関わりのある「もの」を詠む。それはすなわち「ものの思い」を詠むことである。そのうえで、その「ものの思い」にふさわしい言葉を俳人として求めるのである。多くの人が芭蕉を語り、西行を語る。元来、日本の「ものの思い」は、和歌を主にして引き継がれてきたが、西行に憧れた芭蕉という大きな存在があるように、俳句の系譜にも連綿とある。西行と芭蕉の時間的距離は五百年。芭蕉と正岡子規の時間的距離は二百年。子規と我々の時間的距離は百二十年。たいした距離ではない。にもかかわらず、現代俳句が、「ものの思い」の本意を外れ、「こと」に執したり、わけのわからない「観念」を書きなぐるような逸脱は避けねばならない。

 では、その「ものの思い」の根源はなんであろう。それが、「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」である。この言葉は、平安時代の安然という僧が言ったとされているが、本来のインドの仏教思想にはない考え方である。「すべてのものに仏性がある」という考え方は、日本の神道の考え方の「全てのものに神が宿る」という考え方から来ているのである。これが「ものの思い」である。《なにごとのおはしますかはしらねどもかたじけなさに涙こぼるる》と西行は伊勢神宮で詠んだのである。


 ≪主宰作品≫
上り鮎 

初蝶や紅茶に落とすウイスキー
縄文の風に吹かるるつくしんぼ
直角に曲がる木道百千鳥
沖待の鳴らす汽笛や飛花落花
破船まで繋がつてゐる潮干かな
多摩川のひかりに跳ぬる上り鮎
風青しくるりくるりと鉋屑
夏潮を漕ぎし海洋少年団
おにぎりのぼろぼろ零れ不如帰
道化師の見せる素顔や晩夏光

「さざなみ」 (令和四年四月「蛮」61号)  鹿又英一
  

《言葉の変質とは、単なる言い換えにとどまりはしない。変質させる側から言えば夥しいエネルギーを奪取することであり、変質される側にとってみれば際限もない脱力感を経験させられ、そのあとには果てしない徒労感のみが残る(文芸評論家・文学博士 江藤淳)》。 

 さて、内閣訓令第七号「当用漢字表の実施に関する件」及び同八号「現代かなづかいの実施に関する件」の二つが、内閣が出した訓令という形をとって昭和二十一年十一月十六日に出された。これは、今日「国語改革」と言われているが、早い話、マッカーサーが漢字制限と表音式仮名遣いを日本人に強制したものである。米国の狙いは何かと言えば、言語によって繋がれてきた、世界一長い歴史を持つ日本人の精神的な連続性を断ち切る、という目的のためである。彼らには当初、日本人に英語の使用を強制しようという動きがあったが、さすがにそれは無理だと諦めたが、それではと、この訓令を強制したのである。人間は言葉でものを考えるから言葉を変えられることは思考を変えられることである。俳人には、何がなんでも歴史的仮名遣い派と何がなんでも現代仮名遣い派がいて、議論が絶えないが、両派共、この問題の根源がここにあることを認識して議論しているとはとても思えないのである。

 ≪主宰作品≫
神谷バー 

 一束の手紙を燃やす懐手 

猪口才なる小学生のゐる炬燵 

飲み込みの悪い女と春待てり 

立哨の機動隊員凍返る 

雛飾る今上陛下誕生日 

幇間の緩きたすきや春灯 

答案にへのへのもへじ蝶生まる 

はんぺんの膨らんでをり春夕焼 

カラオケの聞かせどころの桜かな 

花屑を着けし靴先神谷バー 

さざなみ (令和四年一月「蛮」60号)  鹿又英一
 

《霜の墓抱き起されしとき見たり 石田波郷》 

 この句、昔から議論になる有名な句なのだが、「抱き起された」のが作者なのか、「霜の墓」なのかということである。上五の切れの強弱ということを考えると、句として深いのが「作者の事」として読む場合である。「墓の事」として読めばまったく切れはなく「石屋さんが墓を抱き起した時に見た」という単なる報告になるからだ。この句の真実は、肺結核に罹っで病臥していた石田波郷が、奥さんに抱き起された時に見た光景ということである。作者が境涯俳句の第一人者であることを考えれば納得である。ことほど左様に俳句という文芸は「読む力」が重要である。小説のように「書く人」と「読む人」が別ではないからだ。詠む力=読む力である。これは両方とも重要であるが、とりわけ選句力、ようするに読む力が重要である。古今の名句を詠み、選句力を養っているかどうかである。それがよく分かるのが句会である。すぐに自句自解をしたがる人は概ね選句力が弱い。自分の句のことしか眼中にないからである。 

鎌倉の散在ヶ池の浮寝鳥 

温泉の卓球場の目貼りかな 

寒柝とすれ違ひたる歩道橋 

大寒や院長室の皮の椅子 

冬霧や口笛が死者呼んでゐる 

さざなみ (令和三年十月「蛮」59号)  鹿又英一

 《此道や行く人なしに秋の暮 芭蕉》

  芭蕉が亡くなったのは、元禄七年(一六九四)十月十四日であった。掲句は、亡くなる一ヶ月前の句で、事実上の辞世の句と見られている。「此道」とは、芭蕉が生涯を賭けてきた俳諧の道のことである。芭蕉は亡くなる四日前の十月十日に江戸の弟子、杉山杉風にこういう手紙を書いている。『杉風へ申し候。ひさびさ厚志、死後まで忘れ難く存じ候。不慮なる所にて相果て、御いとまごひ致さざる段、互に存念、是非なきことに存じ候。いよいよ俳諧御つとめ候て、老後の御楽しみになさるべく候』。注目すべきは「老後の御楽しみになさるべく」と言っているくだりである。 

  このことからわかるのは、芭蕉は、自分が歩いて来た道をさらに推し進めていくべき弟子が自分の廻りには皆無であることを自覚していたのである。そしてつくづく感じるのはこの「此道や」の切字「や」のすごさである。この「や」が、己で完結したゆるぎない世界とその無常観を言い尽くしているのである。切字怖るべし。

初風や富士懐に入りたる

海光に満たされてゐる草の花

秋扇くちびるの端笑ひたる

枝折戸の壊れしままや盆の月

海鳴りの月終電へ急ぎたる

さざなみ (令和三年七月「蛮」58号)  鹿又英一
 

《やれ打つな蠅が手をする足をする 一茶》 

  平明ということは、ただ単にわかりやすいということだけではない。そこには春夏秋冬それぞれの、作者の日常生活と季節、自然との関りの中での「思い」がなければならない。その「思い」とは、言い換えれば、草花や動物や人や産土への挨拶心である。この、挨拶心なくして俳句は成り立たない。それが俳句の根本のところである。掲句、一茶の自然への挨拶心がまさしく現れている。嫌われる蠅に対しても弱者に対する一茶の「思い」を見ることができる。 

  これは、一茶対蠅、という対立の位置ではなく、一茶は蠅と同じ位置にいるのである。手を擦って足を擦ってまるで念仏でも唱えているような蠅と一茶は同じ世界にいるのである。掲句は一茶が故郷柏原に帰ってからの句だが、十五歳から三十五年以上の大都会江戸での生活の中でも季節、自然への挨拶心を忘れなかった。我々も、都会の中に暮らしていても移り行く季節の中に静かに身を置いて、自然への挨拶心を忘れないようにしなければならない。 

灯台の一寸先の卯波かな 

白浴衣夕日の彩の残りけり 

信楽の狸を濡らす青葉雨 

日盛やいつもの場所に警察官 

夕顔やかつて市電の停留所 

さざなみ (令和三年四月「蛮」57号)  鹿又英一
 

《五月雨を集めて早し最上川 芭蕉》 

  おくのほそ道、大石田の高野一榮方での歌仙の発句「五月雨を集めて涼し最上川」という挨拶句が元句であるが、その経緯は横に置いて、なぜ「早き」とせず「早し」とそこでスパッと切ったのかということである。結論を言えば「早き」としたらただの説明文になってしまうからである。 

  俳句は「韻文」である。韻文とは、読んで字のごとく「韻(ひびき)」の文である。つまり俳句は、ひびきのある言葉をもって表現をする文芸である。 

  掲句、声を出して読んでみると見事な文節の切れを感じる。俳句は極めて短いから、作者の最も感動している点を読者にしっかり伝わるように表現しなければならない。 

  もう一句例をあげる。《六月や嶺に雲置く嵐山 芭蕉》この句、「や」を「の」に変えたら平板な六月(陰暦)の嵐山の説明になってしまう。芭蕉が詠みたかったのは六月の実感である。さて、石田波郷は「俳句の韻文的神髄に帰れ」と言い、「霜柱俳句は切字響きけり」と詠んだのである。 

松過や昼酒を酌む串揚屋 

立春や明珍火箸鳴らしたる 

打ち下ろす太筆春の匂ひけり 

引鴨の空を濡らしてをりにけり 

サッカーの歓声聞こゆ春の雨 

さざなみ (令和三年一月「蛮」56号)  鹿又英一

《雪ちるやきのふは見えぬ借家札 一茶》

  文化十年(一八一三)の作である。長く江戸の場末に住んでいた一茶は、こういう光景を多く見たのであろう。現代の都市部の光景と変わらない。この句の詠まれた十九世紀初頭、江戸の人口は百二十万人を数え、ロンドンの八十五万人を圧倒的に凌駕して世界最大の都市であった。そして一茶の住んでいたような場末の人口密度は一平方㎞あたり四万人。現在の東京下町の最も人口密度が高い台東区は一平方㎞あたり三万人である。そして、当時はほとんどが木造平屋であるから想像を絶する混み具合である。《いざいなむ江戸は涼みもむつかしき》と言って文化九年五十歳の時に故郷の信州柏原に帰っているから、冒頭の句は江戸住みの頃の懐古であろう。現代の東京もそうであるが、江戸は地方出身者の町であった。一茶もそうであるように、「江戸に出ればなんとかなる」と言って男性がどんどん流入したから、男女の人口のアンバランスが激しかった。吉原やいわゆる岡場所というのは必然だったのである。

初雀風呂屋の屋根に弾みけり

江の島の浮かんでをりぬ初霞

マヌカンの長き手足や福袋

屋上からトランペットや寒夕焼

子の歯形残る林檎や置炬燵

さざなみ (令和二年十月「蛮」55号)  鹿又英一

《横浜に人と訣れし濃霧かな 鈴木しづ子》

  昭和二十七年(一九五二年)、しづ子の第二句集「指輪」所収の句である。終戦後、横浜港の主な港湾施設は在日米軍に接収され、大桟橋が「センターピア」、山下埠頭が「サウスピア」、瑞穂埠頭が「ノースピア」と呼ばれた。昭和二十七年の講和条約発効後は、順次、大桟橋、山下埠頭と日本に返還されたが、ノースピアは返還されず、まだ米軍の専用埠頭のままである。この埠頭の入り口のすぐ先が首都高速羽横線東神奈川ICのため、仕事で都内に向かう時によくここを通る。霧の出ている日にはこの句を思い出したりする。東京生まれのしづ子は、戦後の混乱期に苦労を重ねた末、昭和二十五年に親戚を頼って岐阜県各務原町の進駐軍向けキャバレーのダンサーになった。その時黒人兵ケリー・クラッケと同棲するが幸せは長くは続かない。ケリーが朝鮮戦争従軍中に麻薬常習者となり、母国にここノースピアから送還されその後死亡したのだ。それを見送った時の句が掲句である。どんなに悲しかっただろうか。

彼岸花だれか探してゐるかたち

とんぼうの首を傾げる無縁墓

ここからが旅の始まり吾亦紅

修羅ひとつ消すにほどよき二日月

旅立ちの刻を逃して月見酒

さざなみ (令和二年七月「蛮」54号)  鹿又英一

《塚も動け我泣声は秋の風 芭蕉》

  自粛でなかなか俳句仲間と会えない日々が続いている。蛮会員の動向は分かるが、超結社の句会仲間の動向はさっぱり解らない。みんな元気かな等と考えていたら「奥の細道」の金沢のくだりの小杉一笑のことを思い出した。《一笑と云ものは、此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬早世したりとて、其兄追善を催すに》という挿話である。金沢に行けば一笑に会える、才能のある若手だからと、芭蕉が楽しみに出かけてゆくと、なんと、一笑は前年の冬に死んでいた。一笑の死は、元禄元年十二月六日のこと。それもいまだ見ぬ芭蕉の金沢来遊を楽しみに待ちながら死んだとの話である。《あはれ年月我を待ちしとなん、生きて世にいまさば越の月をもとも見ばやとは何思ひけん》と芭蕉は一笑の墓に詣で、激しい慟哭を呼び起こし、「塚も動け」という悲痛なる一句を詠んだ。家に籠っているとどうも思考がマイナス方向に行く。自粛が解かれたら必ず皆と元気に再会できるに決まっているのに。

駅員の箒塵とり燕の子

入り船の汽笛聞こゆる薔薇の園

初蝉や畳の上の車椅子

日本の神に一礼アロハシャツ

夕立のみなとみらいを洗ひけり

さざなみ (令和二年四月「蛮」53号) 鹿又英一

《さまざまの事おもひ出す桜かな 芭蕉》

  「切字に用ひる時は、四十八字皆切字也。用ひざる時は、一字も切字なし」と、切るために使えば、切れ字にならない言葉はないと芭蕉は言った。この切れ字を「過去の遺物」としてあえて使わない人がいるが、それは自分の俳句の幅を狭くしているだけのことで何の得にもならない。ようは、使い方の問題である。掲句、胸に沁み込んでくるような余韻を感じる。物事は不変ではなく、刻一刻と変わる。人生はこの刻一刻の積み重ねである。それを教えてくれるのが「季節」である。日本人にとって、その最たるものが「桜」であろう。「ああ、今年も桜が咲いたなあ。一年はなんと早いものだろうか」と、桜を見ながらさまざまな事を思い出す。そんなイメージが渾然一体となってふくらみ、胸に迫ってくる。この余韻のふくらみこそが切れ字「かな」の生み出す最大の効果である。もしこの句から「かな」を取ってしまったらどうか。「さまざまの事思ひ出す桜花」だとしたらなんと味気なく、余韻のない句だろうか。

夜篝の届かぬ闇や浮寝鳥

室の花酔へば昭和の歌ばかり

入り船の汽笛聞こゆる薔薇の園

春闘の弾む話のなかりけり

つつがなき家を下見の燕かな

さざなみ (令和二年一月「蛮」52号) 鹿又英一

《をりとりてはらりとおもきすすきかな 飯田蛇笏》
  蛇笏の超有名句だが、仮名だけで書かれているので漢字による視覚的イメージのない句である。俳句の「音(おん)の効果」を考えるとき、仮名だけの句の方が良い教材になる。例えば「音象徴」である。「音そのものが、特定のイメージを喚起する」現象である。掲句を何度も読むと、掌に次第に現実の重さが伝わってくる。なぜなのかと考えてみるに、母音の影響ではないかと思い当たるのである。
  掲句を母音だけで書いてみると《おいおいえ/ああいおおおい/うういああ》となる。数えてみると、あ=四個、い=五個、う=二個、え=一個、お=五個である。母音の中で暗く重いとされる「う音」と「お音」を足すと七個ある。この音が、中七中盤から重なって出て来るのである。中七から下五にかけて重さがだんだん増してくるのは、この重い母音を重ねている構成がこの句の意味性にプラスして大きな効果を生んでいるのだろうと考えられるのである。とはいうものの、計算してできるものではない。
餅つきの団地爺婆集ひけり
燗酒やビニール傘の溜る店
初電車海の匂ひを運びけり
冬富士を背にサーファーの焚火かな
雪催ロダンいつまで考ふる

さざなみ(令和元年十月「蛮」51号) 鹿又英一

《籾すりの新嘗祭を知らぬかな 正岡子規》
  新嘗祭は陰暦十一月の中の卯の日、天皇陛下がその年の新穀 (栗と稲)を神に捧げ、親しくこれを食す儀式であるが、即位後初めての新嘗祭は大嘗祭(だいじょうさい)とされる。よって、新しい御代、令和元年の新嘗祭は「大嘗祭」になるが、大嘗祭とは新帝が天照大御神と一体になられる、我が国の最も深遠で神秘につつまれた儀式である。令和元年十一月十四日と十五日の二日間、天皇陛下はお一人で自ら天照大御神の御膳を作られ、食事を共になされ、夜は天照大御神と共にお休みになる。これによって新帝は神と繋がり、名実ともに真の天皇になられる。
  さて、掲句を詠んだ正岡子規は俳諧・和歌を歴史的に研究してその革新に乗り出し、俳句・短歌を近代文芸として確立した。なぜなのか。それは「文学文芸も国家建設の一端を担っている」という、愛国者としての明確な意識が子規にあったからである。日本近代化の理念は、富国強兵と殖産興業の二本柱だけではなかったのである。
新秋の酒注ぎ分くる江戸切子
川風も艪を漕ぐ音も秋の声
緑青の吹く十字架や野分晴
秋風に触るる院外処方箋
紅葉かつ散りぬ一兵卒の墓