「さざなみ 」鹿又英一


季刊俳句誌「蛮」に連載のコラム「さざなみ」より転載します。(令和元年10月「蛮」51号~)

さざなみ (令和二年十月「蛮」55号)  鹿又英一

《横浜に人と訣れし濃霧かな 鈴木しづ子》

 昭和二十七年(一九五二年)、しづ子の第二句集「指輪」所収の句である。終戦後、横浜港の主な港湾施設は在日米軍に接収され、大桟橋が「センターピア」、山下埠頭が「サウスピア」、瑞穂埠頭が「ノースピア」と呼ばれた。昭和二十七年の講和条約発効後は、順次、大桟橋、山下埠頭と日本に返還されたが、ノースピアは返還されず、まだ米軍の専用埠頭のままである。この埠頭の入り口のすぐ先が首都高速羽横線東神奈川ICのため、仕事で都内に向かう時によくここを通る。霧の出ている日にはこの句を思い出したりする。東京生まれのしづ子は、戦後の混乱期に苦労を重ねた末、昭和二十五年に親戚を頼って岐阜県各務原町の進駐軍向けキャバレーのダンサーになった。その時黒人兵ケリー・クラッケと同棲するが幸せは長くは続かない。ケリーが朝鮮戦争従軍中に麻薬常習者となり、母国にここノースピアから送還されその後死亡したのだ。それを見送った時の句が掲句である。どんなに悲しかっただろうか。

彼岸花だれか探してゐるかたち

とんぼうの首を傾げる無縁墓

ここからが旅の始まり吾亦紅

修羅ひとつ消すにほどよき二日月

旅立ちの刻を逃して月見酒




さざなみ (令和二年七月「蛮」54号)  鹿又英一

《塚も動け我泣声は秋の風 芭蕉》

 自粛でなかなか俳句仲間と会えない日々が続いている。蛮会員の動向は分かるが、超結社の句会仲間の動向はさっぱり解らない。みんな元気かな等と考えていたら「奥の細道」の金沢のくだりの小杉一笑のことを思い出した。《一笑と云ものは、此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬早世したりとて、其兄追善を催すに》という挿話である。金沢に行けば一笑に会える、才能のある若手だからと、芭蕉が楽しみに出かけてゆくと、なんと、一笑は前年の冬に死んでいた。一笑の死は、元禄元年十二月六日のこと。それもいまだ見ぬ芭蕉の金沢来遊を楽しみに待ちながら死んだとの話である。《あはれ年月我を待ちしとなん、生きて世にいまさば越の月をもとも見ばやとは何思ひけん》と芭蕉は一笑の墓に詣で、激しい慟哭を呼び起こし、「塚も動け」という悲痛なる一句を詠んだ。家に籠っているとどうも思考がマイナス方向に行く。自粛が解かれたら必ず皆と元気に再会できるに決まっているのに。

駅員の箒塵とり燕の子

入り船の汽笛聞こゆる薔薇の園

初蝉や畳の上の車椅子

日本の神に一礼アロハシャツ

夕立のみなとみらいを洗ひけり

さざなみ (令和二年四月「蛮」53号) 鹿又英一

《さまざまの事おもひ出す桜かな 芭蕉》

 「切字に用ひる時は、四十八字皆切字也。用ひざる時は、一字も切字なし」と、切るために使えば、切れ字にならない言葉はないと芭蕉は言った。この切れ字を「過去の遺物」としてあえて使わない人がいるが、それは自分の俳句の幅を狭くしているだけのことで何の得にもならない。ようは、使い方の問題である。掲句、胸に沁み込んでくるような余韻を感じる。物事は不変ではなく、刻一刻と変わる。人生はこの刻一刻の積み重ねである。それを教えてくれるのが「季節」である。日本人にとって、その最たるものが「桜」であろう。「ああ、今年も桜が咲いたなあ。一年はなんと早いものだろうか」と、桜を見ながらさまざまな事を思い出す。そんなイメージが渾然一体となってふくらみ、胸に迫ってくる。この余韻のふくらみこそが切れ字「かな」の生み出す最大の効果である。もしこの句から「かな」を取ってしまったらどうか。「さまざまの事思ひ出す桜花」だとしたらなんと味気なく、余韻のない句だろうか。

夜篝の届かぬ闇や浮寝鳥

室の花酔へば昭和の歌ばかり

入り船の汽笛聞こゆる薔薇の園

春闘の弾む話のなかりけり

つつがなき家を下見の燕かな

さざなみ (令和二年一月「蛮」52号) 鹿又英一

《をりとりてはらりとおもきすすきかな 飯田蛇笏》
 蛇笏の超有名句だが、仮名だけで書かれているので漢字による視覚的イメージのない句である。俳句の「音(おん)の効果」を考えるとき、仮名だけの句の方が良い教材になる。例えば「音象徴」である。「音そのものが、特定のイメージを喚起する」現象である。掲句を何度も読むと、掌に次第に現実の重さが伝わってくる。なぜなのかと考えてみるに、母音の影響ではないかと思い当たるのである。
掲句を母音だけで書いてみると《おいおいえ/ああいおおおい/うういああ》となる。数えてみると、あ=四個、い=五個、う=二個、え=一個、お=五個である。母音の中で暗く重いとされる「う音」と「お音」を足すと七個ある。この音が、中七中盤から重なって出て来るのである。中七から下五にかけて重さがだんだん増してくるのは、この重い母音を重ねている構成がこの句の意味性にプラスして大きな効果を生んでいるのだろうと考えられるのである。とはいうものの、計算してできるものではない。
餅つきの団地爺婆集ひけり
燗酒やビニール傘の溜る店
初電車海の匂ひを運びけり
冬富士を背にサーファーの焚火かな
雪催ロダンいつまで考ふる

さざなみ(令和元年十月「蛮」51号) 鹿又英一

《籾すりの新嘗祭を知らぬかな 正岡子規》
新嘗祭は陰暦十一月の中の卯の日、天皇陛下がその年の新穀 (栗と稲)を神に捧げ、親しくこれを食す儀式であるが、即位後初めての新嘗祭は大嘗祭(だいじょうさい)とされる。よって、新しい御代、令和元年の新嘗祭は「大嘗祭」になるが、大嘗祭とは新帝が天照大御神と一体になられる、我が国の最も深遠で神秘につつまれた儀式である。令和元年十一月十四日と十五日の二日間、天皇陛下はお一人で自ら天照大御神の御膳を作られ、食事を共になされ、夜は天照大御神と共にお休みになる。これによって新帝は神と繋がり、名実ともに真の天皇になられる。
さて、掲句を詠んだ正岡子規は俳諧・和歌を歴史的に研究してその革新に乗り出し、俳句・短歌を近代文芸として確立した。なぜなのか。それは「文学文芸も国家建設の一端を担っている」という、愛国者としての明確な意識が子規にあったからである。日本近代化の理念は、富国強兵と殖産興業の二本柱だけではなかったのである。
新秋の酒注ぎ分くる江戸切子
川風も艪を漕ぐ音も秋の声
緑青の吹く十字架や野分晴
秋風に触るる院外処方箋
紅葉かつ散りぬ一兵卒の墓