「さざなみ 」鹿又英一


季刊俳句誌「蛮」に連載のコラム「さざなみ」より転載します。(令和元年10月「蛮」51号~)

さざなみ (令和四年一月「蛮」60号)  鹿又英一
 

《霜の墓抱き起されしとき見たり 石田波郷》 

 この句、昔から議論になる有名な句なのだが、「抱き起された」のが作者なのか、「霜の墓」なのかということである。上五の切れの強弱ということを考えると、句として深いのが「作者の事」として読む場合である。「墓の事」として読めばまったく切れはなく「石屋さんが墓を抱き起した時に見た」という単なる報告になるからだ。この句の真実は、肺結核に罹っで病臥していた石田波郷が、奥さんに抱き起された時に見た光景ということである。作者が境涯俳句の第一人者であることを考えれば納得である。ことほど左様に俳句という文芸は「読む力」が重要である。小説のように「書く人」と「読む人」が別ではないからだ。詠む力=読む力である。これは両方とも重要であるが、とりわけ選句力、ようするに読む力が重要である。古今の名句を詠み、選句力を養っているかどうかである。それがよく分かるのが句会である。すぐに自句自解をしたがる人は概ね選句力が弱い。自分の句のことしか眼中にないからである。 

鎌倉の散在ヶ池の浮寝鳥 

温泉の卓球場の目貼りかな 

寒柝とすれ違ひたる歩道橋 

大寒や院長室の皮の椅子 

冬霧や口笛が死者呼んでゐる 


さざなみ (令和三年十月「蛮」59号)  鹿又英一

 《此道や行く人なしに秋の暮 芭蕉》

  芭蕉が亡くなったのは、元禄七年(一六九四)十月十四日であった。掲句は、亡くなる一ヶ月前の句で、事実上の辞世の句と見られている。「此道」とは、芭蕉が生涯を賭けてきた俳諧の道のことである。芭蕉は亡くなる四日前の十月十日に江戸の弟子、杉山杉風にこういう手紙を書いている。『杉風へ申し候。ひさびさ厚志、死後まで忘れ難く存じ候。不慮なる所にて相果て、御いとまごひ致さざる段、互に存念、是非なきことに存じ候。いよいよ俳諧御つとめ候て、老後の御楽しみになさるべく候』。注目すべきは「老後の御楽しみになさるべく」と言っているくだりである。 

  このことからわかるのは、芭蕉は、自分が歩いて来た道をさらに推し進めていくべき弟子が自分の廻りには皆無であることを自覚していたのである。そしてつくづく感じるのはこの「此道や」の切字「や」のすごさである。この「や」が、己で完結したゆるぎない世界とその無常観を言い尽くしているのである。切字怖るべし。

初風や富士懐に入りたる

海光に満たされてゐる草の花

秋扇くちびるの端笑ひたる

枝折戸の壊れしままや盆の月

海鳴りの月終電へ急ぎたる

さざなみ (令和三年七月「蛮」58号)  鹿又英一
 

《やれ打つな蠅が手をする足をする 一茶》 

  平明ということは、ただ単にわかりやすいということだけではない。そこには春夏秋冬それぞれの、作者の日常生活と季節、自然との関りの中での「思い」がなければならない。その「思い」とは、言い換えれば、草花や動物や人や産土への挨拶心である。この、挨拶心なくして俳句は成り立たない。それが俳句の根本のところである。掲句、一茶の自然への挨拶心がまさしく現れている。嫌われる蠅に対しても弱者に対する一茶の「思い」を見ることができる。 

  これは、一茶対蠅、という対立の位置ではなく、一茶は蠅と同じ位置にいるのである。手を擦って足を擦ってまるで念仏でも唱えているような蠅と一茶は同じ世界にいるのである。掲句は一茶が故郷柏原に帰ってからの句だが、十五歳から三十五年以上の大都会江戸での生活の中でも季節、自然への挨拶心を忘れなかった。我々も、都会の中に暮らしていても移り行く季節の中に静かに身を置いて、自然への挨拶心を忘れないようにしなければならない。 

灯台の一寸先の卯波かな 

白浴衣夕日の彩の残りけり 

信楽の狸を濡らす青葉雨 

日盛やいつもの場所に警察官 

夕顔やかつて市電の停留所 

さざなみ (令和三年四月「蛮」57号)  鹿又英一
 

《五月雨を集めて早し最上川 芭蕉》 

  おくのほそ道、大石田の高野一榮方での歌仙の発句「五月雨を集めて涼し最上川」という挨拶句が元句であるが、その経緯は横に置いて、なぜ「早き」とせず「早し」とそこでスパッと切ったのかということである。結論を言えば「早き」としたらただの説明文になってしまうからである。 

  俳句は「韻文」である。韻文とは、読んで字のごとく「韻(ひびき)」の文である。つまり俳句は、ひびきのある言葉をもって表現をする文芸である。 

  掲句、声を出して読んでみると見事な文節の切れを感じる。俳句は極めて短いから、作者の最も感動している点を読者にしっかり伝わるように表現しなければならない。 

  もう一句例をあげる。《六月や嶺に雲置く嵐山 芭蕉》この句、「や」を「の」に変えたら平板な六月(陰暦)の嵐山の説明になってしまう。芭蕉が詠みたかったのは六月の実感である。さて、石田波郷は「俳句の韻文的神髄に帰れ」と言い、「霜柱俳句は切字響きけり」と詠んだのである。 

松過や昼酒を酌む串揚屋 

立春や明珍火箸鳴らしたる 

打ち下ろす太筆春の匂ひけり 

引鴨の空を濡らしてをりにけり 

サッカーの歓声聞こゆ春の雨 

さざなみ (令和三年一月「蛮」56号)  鹿又英一

《雪ちるやきのふは見えぬ借家札 一茶》

  文化十年(一八一三)の作である。長く江戸の場末に住んでいた一茶は、こういう光景を多く見たのであろう。現代の都市部の光景と変わらない。この句の詠まれた十九世紀初頭、江戸の人口は百二十万人を数え、ロンドンの八十五万人を圧倒的に凌駕して世界最大の都市であった。そして一茶の住んでいたような場末の人口密度は一平方㎞あたり四万人。現在の東京下町の最も人口密度が高い台東区は一平方㎞あたり三万人である。そして、当時はほとんどが木造平屋であるから想像を絶する混み具合である。《いざいなむ江戸は涼みもむつかしき》と言って文化九年五十歳の時に故郷の信州柏原に帰っているから、冒頭の句は江戸住みの頃の懐古であろう。現代の東京もそうであるが、江戸は地方出身者の町であった。一茶もそうであるように、「江戸に出ればなんとかなる」と言って男性がどんどん流入したから、男女の人口のアンバランスが激しかった。吉原やいわゆる岡場所というのは必然だったのである。

初雀風呂屋の屋根に弾みけり

江の島の浮かんでをりぬ初霞

マヌカンの長き手足や福袋

屋上からトランペットや寒夕焼

子の歯形残る林檎や置炬燵


さざなみ (令和二年十月「蛮」55号)  鹿又英一

《横浜に人と訣れし濃霧かな 鈴木しづ子》

  昭和二十七年(一九五二年)、しづ子の第二句集「指輪」所収の句である。終戦後、横浜港の主な港湾施設は在日米軍に接収され、大桟橋が「センターピア」、山下埠頭が「サウスピア」、瑞穂埠頭が「ノースピア」と呼ばれた。昭和二十七年の講和条約発効後は、順次、大桟橋、山下埠頭と日本に返還されたが、ノースピアは返還されず、まだ米軍の専用埠頭のままである。この埠頭の入り口のすぐ先が首都高速羽横線東神奈川ICのため、仕事で都内に向かう時によくここを通る。霧の出ている日にはこの句を思い出したりする。東京生まれのしづ子は、戦後の混乱期に苦労を重ねた末、昭和二十五年に親戚を頼って岐阜県各務原町の進駐軍向けキャバレーのダンサーになった。その時黒人兵ケリー・クラッケと同棲するが幸せは長くは続かない。ケリーが朝鮮戦争従軍中に麻薬常習者となり、母国にここノースピアから送還されその後死亡したのだ。それを見送った時の句が掲句である。どんなに悲しかっただろうか。

彼岸花だれか探してゐるかたち

とんぼうの首を傾げる無縁墓

ここからが旅の始まり吾亦紅

修羅ひとつ消すにほどよき二日月

旅立ちの刻を逃して月見酒

さざなみ (令和二年七月「蛮」54号)  鹿又英一

《塚も動け我泣声は秋の風 芭蕉》

  自粛でなかなか俳句仲間と会えない日々が続いている。蛮会員の動向は分かるが、超結社の句会仲間の動向はさっぱり解らない。みんな元気かな等と考えていたら「奥の細道」の金沢のくだりの小杉一笑のことを思い出した。《一笑と云ものは、此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬早世したりとて、其兄追善を催すに》という挿話である。金沢に行けば一笑に会える、才能のある若手だからと、芭蕉が楽しみに出かけてゆくと、なんと、一笑は前年の冬に死んでいた。一笑の死は、元禄元年十二月六日のこと。それもいまだ見ぬ芭蕉の金沢来遊を楽しみに待ちながら死んだとの話である。《あはれ年月我を待ちしとなん、生きて世にいまさば越の月をもとも見ばやとは何思ひけん》と芭蕉は一笑の墓に詣で、激しい慟哭を呼び起こし、「塚も動け」という悲痛なる一句を詠んだ。家に籠っているとどうも思考がマイナス方向に行く。自粛が解かれたら必ず皆と元気に再会できるに決まっているのに。

駅員の箒塵とり燕の子

入り船の汽笛聞こゆる薔薇の園

初蝉や畳の上の車椅子

日本の神に一礼アロハシャツ

夕立のみなとみらいを洗ひけり

さざなみ (令和二年四月「蛮」53号) 鹿又英一

《さまざまの事おもひ出す桜かな 芭蕉》

  「切字に用ひる時は、四十八字皆切字也。用ひざる時は、一字も切字なし」と、切るために使えば、切れ字にならない言葉はないと芭蕉は言った。この切れ字を「過去の遺物」としてあえて使わない人がいるが、それは自分の俳句の幅を狭くしているだけのことで何の得にもならない。ようは、使い方の問題である。掲句、胸に沁み込んでくるような余韻を感じる。物事は不変ではなく、刻一刻と変わる。人生はこの刻一刻の積み重ねである。それを教えてくれるのが「季節」である。日本人にとって、その最たるものが「桜」であろう。「ああ、今年も桜が咲いたなあ。一年はなんと早いものだろうか」と、桜を見ながらさまざまな事を思い出す。そんなイメージが渾然一体となってふくらみ、胸に迫ってくる。この余韻のふくらみこそが切れ字「かな」の生み出す最大の効果である。もしこの句から「かな」を取ってしまったらどうか。「さまざまの事思ひ出す桜花」だとしたらなんと味気なく、余韻のない句だろうか。

夜篝の届かぬ闇や浮寝鳥

室の花酔へば昭和の歌ばかり

入り船の汽笛聞こゆる薔薇の園

春闘の弾む話のなかりけり

つつがなき家を下見の燕かな

さざなみ (令和二年一月「蛮」52号) 鹿又英一

《をりとりてはらりとおもきすすきかな 飯田蛇笏》
  蛇笏の超有名句だが、仮名だけで書かれているので漢字による視覚的イメージのない句である。俳句の「音(おん)の効果」を考えるとき、仮名だけの句の方が良い教材になる。例えば「音象徴」である。「音そのものが、特定のイメージを喚起する」現象である。掲句を何度も読むと、掌に次第に現実の重さが伝わってくる。なぜなのかと考えてみるに、母音の影響ではないかと思い当たるのである。
  掲句を母音だけで書いてみると《おいおいえ/ああいおおおい/うういああ》となる。数えてみると、あ=四個、い=五個、う=二個、え=一個、お=五個である。母音の中で暗く重いとされる「う音」と「お音」を足すと七個ある。この音が、中七中盤から重なって出て来るのである。中七から下五にかけて重さがだんだん増してくるのは、この重い母音を重ねている構成がこの句の意味性にプラスして大きな効果を生んでいるのだろうと考えられるのである。とはいうものの、計算してできるものではない。
餅つきの団地爺婆集ひけり
燗酒やビニール傘の溜る店
初電車海の匂ひを運びけり
冬富士を背にサーファーの焚火かな
雪催ロダンいつまで考ふる

さざなみ(令和元年十月「蛮」51号) 鹿又英一

《籾すりの新嘗祭を知らぬかな 正岡子規》
  新嘗祭は陰暦十一月の中の卯の日、天皇陛下がその年の新穀 (栗と稲)を神に捧げ、親しくこれを食す儀式であるが、即位後初めての新嘗祭は大嘗祭(だいじょうさい)とされる。よって、新しい御代、令和元年の新嘗祭は「大嘗祭」になるが、大嘗祭とは新帝が天照大御神と一体になられる、我が国の最も深遠で神秘につつまれた儀式である。令和元年十一月十四日と十五日の二日間、天皇陛下はお一人で自ら天照大御神の御膳を作られ、食事を共になされ、夜は天照大御神と共にお休みになる。これによって新帝は神と繋がり、名実ともに真の天皇になられる。
  さて、掲句を詠んだ正岡子規は俳諧・和歌を歴史的に研究してその革新に乗り出し、俳句・短歌を近代文芸として確立した。なぜなのか。それは「文学文芸も国家建設の一端を担っている」という、愛国者としての明確な意識が子規にあったからである。日本近代化の理念は、富国強兵と殖産興業の二本柱だけではなかったのである。
新秋の酒注ぎ分くる江戸切子
川風も艪を漕ぐ音も秋の声
緑青の吹く十字架や野分晴
秋風に触るる院外処方箋
紅葉かつ散りぬ一兵卒の墓